令和の異端児社長・佐野直史「サッカー×飲食×書道」~数々のオリジナルブランドを創業&プロデュース!セカンドキャリア成功術にブラジルのプロサッカー選手で経験した裏歴史があった⁉「居酒屋・新時代」「居酒屋・新時代44」「国産厳選 鴨と豚 とんぺら屋」「タイレストラン・スコンター」「韓国料理・ネスタル」「生串打ち 塩焼鳥 鳥ぶら」年商200億円・店舗数150の大型飲食グループ社長 ≪魂の金言21連発≫

【X JAPANとキャプテン翼が好きだった青年が世界へ羽ばたいた】
――― 好きな音楽を教えてください 佐野 X JAPANです。中学生、高校生の時は聞きまくって、アルバム、ライブビデオは全て持っていました。好きになった理由は、中学の頃のXのメンバー(特にYOSHIKI)の生き様が格好よかったので、うたっている歌は歌詞の内容に関わらず全て好きになりました。今でもXを聞くと、モチベーションやテンションが上がるので、取り組みの成果が上がります。あとプロサッカー選手時代は試合前に聞いていました。今は移動中の車内でたまに聞いております。戦闘モードになります。 ――― どんな幼少期・青年期を歩んだんでしょうか 佐野 祖父、祖母、父、母、妹の6人家族のなかで育ちました。非常に厳格な家庭で、風呂、食事は祖父から、食事は畳に正座をして一言も喋らず黙って食べることが決まりでした。男が台所へ入ることは許されない、テレビは日曜20時に放送されていた大河ドラマしか見てはいけなく、毎日20時に消灯が徹底した家でした。ただ、日曜日の大河ドラマを見る時だけは21時まで起きていることを許され毎週の楽しみでした。日中は、山や川に虫を取りに行ったり、庭で犬と遊んだり、庭師のおじさんの手伝いをしたり、庭の池で飼っていた錦鯉に餌をあげたり、書道をするのが楽しみでした。 祖父は金沢駅など歴史的建造物の設計を担う一流の建築家、祖母は諏訪の大庄屋の出身、父は会社経営者で父方の親戚は、会社役員、東京都庁、防衛省幹部、高校教員等であり、母は専業主婦であったが母方の親戚は全員が会社経営者という環境で、幼少期から高いマインドシップに接して育ちまして、その環境は人生に大きな影響を与えたと思います。父は会社を経営していて武闘家でもありました。日本空手協会の空手家で、佐野家の格言は「喧嘩でも何でもいいから1番になれ」「嘘はつくな」「弱い者には手を出すな」でした。学歴は、岐阜県各務原市立鵜沼第一小学校、岐阜県各務原市立鵜沼中学校、岐阜県立岐阜工業高等学校卒業です。高校時代は1991年・1993年にインターハイ、全国高等学校サッカー選手権大会に出場させていただきました。高校卒業してすぐに単身でブラジルにプロサッカー選手になるために単身留学。当時の日本は経済大国世界2位、Jリーグ発足の話もあがる絶頂期の頃でした。
▲写真:小学校時代

▲写真:中学校大会で優勝(1990年)

▲写真:全国高校サッカー選手権出場(1993年)

▲写真:全国高校サッカー選手権・開会式(1993年)
【世界に挑戦した5年間のプロサッカー時代は栄光に輝いていたが・・・突如挫折と引退の現実が襲う】
――― プロサッカー選手時代の実績を教えてください 佐野 計5年間で4チームのブラジル国内のサッカークラブを渡り歩きました。当時海外で活躍する日本サッカー選手の先駆けだったと思います。簡単ですが5年間の実績です。
▲写真:ボトゥポランゲンセ所属時のブラジル新聞

▲写真:ボトゥポランゲンセ所属時のブラジル新聞
▽プロ1年目(1994年3月〜1995年3月)
1994年3月、渡伯。ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブアメリカFC(América Futebol Clube)に練習生として合流。言葉が分からないものの持ち前のサッカーセンスが評価された。当時の体力測定は、50m5秒8、1500m4分10秒。
▲写真:ビザ
▽プロ2年目(1995年4月〜1996年3月)
1995年8月、アメリカFCとプロ契約。1995年11月、ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブCAヴォトゥポランゲンセに移籍。1996年2月14日、CAヴォトゥポランゲンセとプロ契約。年間シーズンを通してほぼ全試合に出場。ポルトガル語、スペイン語は現地の人並みに話せるようになり、選手間のコミュニケーションも問題なく取れるようになった。持ち前の人懐っこい性格とコミュニケーション力が発揮され、チームをまとめる中心的存在になった。肉体改造を行うことでブラジル人のフィジカルと互角で張り合える体格となった。プロ契約時のポジションはMF。
▲写真:アメリカFCの選手証

▲写真:ヴォトゥポランゲンセの時の名刺
▽プロ3年目(1996年4月〜1997年3月)
1996年10月、ブラジル・サンタカタリーナ州のプロサッカークラブジョインヴィレECに移籍、プロ契約。マルコス・パウロ・ソウザ・リベイロ(2001年 – 2004年6月 ベガルタ仙台 、2002年J2得点王)、ファビオ・ジョゼ・ドス・サントス(2003年 – 2006年 アルビレックス新潟)らと共にプレイする。
▲写真:1996年プロ契約を証明するプロの選手証
▽プロ4年目(1997年4月〜1998年3月)
1997年5月2日、ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブアソシアソン・エスポルチーバ・イーリャソウテイラに移籍。ゲームメーカーとしてチームの立て直しをオファーされた。シーズン前半は首位独走したが、シーズン後半は怪我人が相次ぎ順位を落とした。佐野もシーズン終了間際の練習中に大怪我をした。
▲写真:1997年プロ契約を証明するプロの選手証
▽プロ5年目(1998年4月〜1999年3月)
前シーズンの怪我が完治せず、出場回数を減らし日本に帰国。 計5年間で1825日、4チームのブラジル国内のプロサッカークラブを渡り歩いた。当時海外で活躍する日本サッカー選手の先駆けだった。
▲写真:ブラジルサンパウロに到着した時の写真(1994年)

▲写真:ブラジルにわたって1年目(1994年)

▲写真:試合前の佐野直史

▲写真:イーリャソウテイラ所属(1998年)

▲写真:1ヵ月分のファンレター(1998年)

▲写真:ジョインビレ所属。スタンドでたたずむ(1997年)

▲写真:ジョインビレ所属(1997年)

▲写真:肉体改造に成功した佐野(1995年)
【松下幸之助、稲盛和夫、高塚猛を尊敬しています。今度は僕が未来へ恩返しする番です】
――― 仕事、サッカー以外の特技・趣味を教えてください 佐野 英語とポルトガル語です。現役時代はペラペラでしたが、今はヒアリング専門かもです。何度か通訳を頼まれたときは専門用語が出てくると危なかったですね。書道は「長良川天神書道展・奨励賞」を受賞しました。書道家という顔も持ち、「新時代」のグラスの文字や、壁の文字、社旗など、全て自分で書いてます。休みの日は、全国各地に行って観光地以外の、日常の街、歴史的な場所に溶け込むことことや、色々なスーパーマーケットを巡ることが好きです。資格としては「小型船舶操縦士」「車両系建設機械運転技能講習」を持ってます。



【書道家としてお客様にこめるメッセージとは】
――― 先程お話にでました書道家という一面についてお話をお聞かせください 佐野 僕は、壁にぶつかると書道をして乗り越えます。文字にする理由は、社員のためです。社員もきっと同じ壁にぶつかる。だから、その時に参考にしてほしい。その思いから書き始め、やがて店舗に貼るようになりました。 まだお店が2、3店舗しかない頃、壁に貼った文字をお客様が見て、これいいねって言ってくれたことから、それ以降全部のお店に貼るようになっていきました。
●成功も失敗もない。一時的な経験さ。
一喜一憂は後退でしかない。まっすぐ前を向いて前進する。

●人は人の役に立つために生まれてきた。
ゴールを見失ったときに考え方の指標としました。

●人生とは挑戦の繰り返しである。
先が見えない時に先が見えないことこそが正しいことであると考えました。

●友達は人生で発見した宝物
自分には何もないと思うことがどれほど贅沢なことなのか。既に宝物をいっぱい持っていると考えました。

●ありがとう。あなたがいたからみんなそう思ってる。
僕の周りにいる人がみんな自信を持ってくれるといいと思いました。

●地道な努力が夢の実現の最短距離
コツコツ、一歩一歩、これに勝るものはないということを確認しました

●自分は特別でも何でもない。みんな同じ生きているんだ。
調子に乗ったり、うぬぼれたり、そんなことしてたら、仲間を失うということを考えました。

●自分の無力さを知ったとき、初めて成長したんだなぁと感じた。
視野が広がった証拠、それは一段高い場所に上がったから視野が広がったんだと考えました。

●信念は持ち続けることが大切だ。
黙って持ち続ける、それが最強と考えました。

●カメでもウサギでも自分らしいければいい
人と比較すること自体が無意味だと考えました

●死ぬべきものが今生きている。
人間はいつか死ぬ。なのに、今生きている。こんなにありがたいこと、こんなチャンスは無いと考えました。

●人は楽しいところに集まる。
人は集めようとしなくても楽しければ勝手に集まってくると考えました。

●叶わないかもしれないが挑戦しないよりましだ。
叶ったときの自分より、叶えるために突き進んでいるときの自分の方が幸せだと考えました。

●みんな同じ生きているんだ。
自分だけ良ければいいなんて考えてはダメ、みんなで助け合っていかなければいけないと考えました。

●夢を語ろう
夢を語っている時が1番楽しく1番かっこよく見えると考えました

●本当の勝負はうまくいかなかった時だ
うまくいっているときは誰でも前進する、うまくいかなかった時こそ前進できる人が勝利すると考えました

●どうにかなるさ。
振り返ってみるとどうにもならなかったことが無いから今があると考えました。

●人を楽しませたきゃ自分が楽しもうよ。
人は自分の鏡だと考えました。

●納得するまでやったらいいじゃん
挑戦にルールは無いと考えました

● 80年あっても今はもうないんだよ。だから今を本気で生きるんだ。
80年後も今日の繰り返しであると考えました

●いいじゃん今日は新時代に来てるんだから。
新時代に仕事の愚痴を言いに来たんじゃない。楽しみに来たんだと考えました。
▽プロフィール 佐野 直史(さの なおし)1975年7月6日 岐阜県各務原市生まれ、身長174cm、血液型AB型。経営者、書道アーティスト、ブラジルの元プロサッカー選手。引退後セカンドキャリアで年商200億、総店舗数150を越える飲食グループを築く。「伝串」開発者。株式会社ファッズ代表取締役社長、株式会社佐野ワールドフードプラン代表取締役社長。 【経歴】2006年、4年間で大手飲食グループの店舗を大きく拡大させた経験を基に愛知で独立。株式会社ファッズ ワールドフードプランを設立、飲食店1号店を愛知県高浜市に出店。2008年、株式会社ファッズに社名変更。2022年、飲食店100号店を出店。株式会社佐野ワールドフードプランを創業。「食を通して世に貢献し私たち社員そして私たちに関わる全ての人が幸せになることを目指す」を経営理念とした飲食店1000店舗を目指す。 【創業・プロデュース】「居酒屋 新時代」「居酒屋 新時代44(よんよん)」「居酒屋 とんぺら屋」「タイ王国商務省認定レストラン スコンター」「韓国料理 ネスタル」「生串打ち 塩焼鳥 鳥ぶら」 【メディア出演】雑誌「飲食店経営」(表紙)、「リベラルタイム」ほか多数 【サッカー経歴~プロまでの軌跡】 1984年 サッカースポーツ少年団に入団/1985年 キャプテンにて岐阜県東部リーグ優勝/1986年 11歳にてサッカー岐阜県選抜に選ばれる/1989年 14歳にて年間ベストイレブン受賞/1990年 15歳にて年間最優秀選手賞受賞/1992年 中京TV杯(サッカー高校クラブ選手権)全国準優勝/1993年 インターハイ出場、全国高校サッカー選手権出場 <個人タイトル> 年間最優秀選手賞2回/年間ベストイレブン2回

▲写真:『キャプテン翼』になりたいと一心不乱にサッカーボールを追いかけている佐野直史

▲写真:佐野直史と納谷宣雄