Negicco20周年、熊倉維仁70才がメモリアルイヤーに新たな取り組み!?区切り良き年に一皮二皮むける!オールドルーキーが誓った挑戦とは?
2023年7月に新潟県を拠点に活動する3人組女性ユニット「Negicco」(ネギッコ)がデビュー20周年を迎える。ライブをすれば多くの人を集め、高いクオリティーの楽曲は音楽関係者、業界人から多数のファンがいるほど。耳心地の良い3人のハーモニ―は一目置かれる存在で長年TVCMにも起用されている。その彼女たちの活躍の裏には必ず1人の男性が支えにいた。Negiccoが所属する音楽事務所「EHクリエイターズ」創設者であり長年現場マネージャーを務めた熊さん(熊倉維仁の愛称)。2022年11月で70歳の古希を迎えた。現在もなお新潟県で現役の『デザイナー』『ブルースシンガー』を務めながら、EHクリエイターズ会長としてNegiccoを支える。周囲から愛称「熊さん」と呼ばれる熊倉のヒストリーにクローズアップしてみた。長時間の独占インタビューの結末には彼が大事にする哲学が色濃く垣間見る。ブルースへのこだわり、仕事を遊び変える天才、そしてNegiccoメンバーに伝えてきたことなどなど見所満載な内容を貰えた。
『楽しい事が仕事になれば幸せ』
―――70歳おめでとうございます。早速ですが多才多趣味の印象を受けるのですが
熊倉 ありがとうございます。趣味を並べると身体を動かすのが好きでしたから、テニス、登山、キャンプ、 カヌー、バンド活動、映画鑑賞、絵画観賞です。スノボにはどっぷりハマりましたね。私が35 才位だったでしょうか?日本にスノボが入って来て50 才位までハマってました。マジでスノボショップを始めようかと考える位でした。『楽しいことが仕事になれば幸せ』と云う考えでしたから。興味あるものには一度は体験してみるの気持ちです。多才では無いです。
―――好きなアーティスト教えて下さい
熊倉 グラフィックデザイナーの横尾忠則さん、岡本太郎さん、東京オリンピックのポスターで有名な亀倉雄策さん日本を代表する方々ですがやはり斬新ですね、既存にとらわれないという事教えて頂きました、大いに尊敬する偉大なる方々です。ミュージシャンでは色んなブルースマンいらっしゃいますが良く聴いたのはロバート・ジョンソン、BBキング、アルバートキング、フレディキング、サンハウスなど日本人では、ウエストロードブルースバンド、ブレイクダウン、憂歌団、ブレイクダウンの近藤房之助は踊るポンポコリンでブレイクして逆にブルースを世に知らしめました。関西が日本のブルースの発祥みたいなところ面白いですね。影響を受けた人 は作家の安部公房さんでしょうか。世の中も見る角度によって色んな見方が出来ますね。最近YouTubeを良く見るんですが同世代の所ジョージさんが色々な角度で物事を楽しんでますよね。所さんの生き方、尊敬します。
―――有名人に会えて嬉しかったエピソード教え下さい
熊倉 「笑っていいとも!」でタモリさんの控室に挨拶に伺ったときは興奮しました!Negicco を連れて事務所社長として「わが社のいちおしタレントコーナー」という企画で出演しまして。番組終了後ご挨拶に伺ったところ「どうぞどうぞ」と気さくに中に入れて頂きお話しをしました。初代仮面ライダーでサムライの藤岡弘さん、Original Loveの田島貴男さんやフェスに出させて頂いた時に楽屋裏で今どきの早々たるミュージシャンの方々を見たときも興奮を隠しきれないミーハーでしたね。2016年でしたかNHK大河ドラマ『真田丸』に出演されてた草刈正雄さんをNHKの食堂でお見かけしたときも忘れません。私と同じ1952年生まれで18歳ぐらいに資生堂のCM「MG5」(男性用化粧品)で大ブレイクしまして。めちゃくちゃハンサムでしたからね。日本で初めて男性化粧品のCMがTVで流れたのはこれじゃないですかね?
―――交友関係をお教えください
熊倉 新潟のお世話になった各代理店の方々や媒体の方々など今でも仲良く、会う様にしてますがお笑い集団NAMARAの江口さんやタレントのヤンちゃんはNegiccoがまだデビュー当時からお世話になってますから特別ですね。相方のギタリスト坂井崇人は音楽のみならず良き相棒ですね。AHBBのメンバーは活動休止してますが良き仲間達です。ひなたの2人はデビューから知ってますから親子関係みたいですね。頭脳警察のパンタさんには色々お世話になりました、最近は身体が心配です。南 正人さん(2021年死去)ナミさんと2019年対バンさせて頂き楽しかったです。事務所にもひょっこり尋ねて来たり自由人でしたね、昔からイベントにも気楽に出て頂き感謝してます。高田 渡さん(2005年死去)皆さんありがとうございます。
―――Negiccoさんとは関係ないお仕事もお教えください
熊倉 ライブハウスに居ましたから音響やらイベントの出演者、ミュージシャンのキャスティングの仕事をやってました。市町村のお祭りの仕事、ジャズ現場での音響、キャスティングも意外と多かったですね。最近ですが2019年に仲の良いBSN新潟放送の方からナイター枠が無くなる10月から3月末迄の6ヶ月間に「金曜日のピーター&ゴードン」(金曜午後9時)と云う音楽主体の番組でギターの坂井、保苅、熊倉で大変でしたが好き放題させて頂きました。BSNさんありがとうございました。個人的音楽活動として新潟市内のイベントやホテルでのライブやテレビ局のイベントで出演あちこちで出させて頂いております。2019年にはブルースマンの聖地でもある京都のライブハウス磔磔でNegiccoのツアーライブの前日に私たちのブルースバンドでやらせて頂きました。
『70才にして初のオリジナル曲をリリース』
―――70才にして初のオリジナル曲をリリース初のオリジナル新曲を出されるのですよね
熊倉 70才にして初めての挑戦となります。今までは好きなブルースや昭和のヒット曲、いわゆる素晴らしい名曲がいっぱいあるのでそれを歌ってきましたが、昨年2022年に広島在住の監督、配役、スタッフで作られた映画『深夜兄弟』を新潟の名画座シネウインドで上映するので集客する為のプロモーションを広島繋がりで手伝って欲しいと言われ、主演のミカカのストリートライブの手伝いやベアスロープで対バンをしてそのミカカの世界観に触発されました。「俺もオリジナルを」と喝を注入され。相方で悪友の音楽仲間、坂井崇人とオリジナル曲を作りはじめることに。出来ればライブ予定の今年2月11日に発表予定ですがまだタイトルなどは未定です。相方と近々に音合わせなどして作ります。ベアスロープは7年前に苗場で開催したNegiccoとファンとの忘年会的イベントで初ライブ。手前味噌ですが評判良くここで定着しましたね。最近はベアスロの世界観が出来つつあると思いますしベアスロファンも増えつつある様に思います。
―――ギタリスト坂井さんからコメントをいただいております
坂井崇人 仕事柄色々なジャンルの方と音楽を奏でる事があるのですが熊さんとの音楽はジャンル不明。魂や生き様を歌う様はすごくブルースですが、その場にいてくれる方を笑わせたり楽しませるっていう、熊さんと僕の共通認識が音楽と違う部分も含めてライブの中で即興で色々とやっていく。あるのはアレンジされていないコード譜。あとはアレンジも演出も即興。そんなところはジャズに近いのかなと思います。最近コミックバンドになった?って聞かれますがもちろん台本も用意していません。AHBBやベアスロープは自分達で企画して行うライブ以外にも色んな場所でライブさせていただく機会に恵まれて本当にありがたい限りです。
『熊倉ヒストリーをプレイバック』
―――幼少時代の話をお聞かせください
熊倉 1952年11月14日、広島県広島市の中心街で生まれました。原爆ドームの近くの産婦人科だったので産後数年、米国が体内の残留放射能を調べてたそうです。家は借家だったと思いますが大きな門の立派な縁側のある家でした。3つ違いの妹が居ます。当時はまだまだ車も少なかったのですが車が社会の中心になるのを親父は予測してたのかガソリンスタンドを経営。母はたまに手伝ってました。父は野球好きというより『カープが広島を盛り上げる象徴の様な存在』だったと思います。時間があるときは広島市民球場に連れて行ってくれましたね。球場でアンパンを買って貰うのが楽しみでついて行ってたように思います。父はよく働き仕事が終わって夜釣りに行くのが何よりの楽しみだった様です。覚えているのは対岸の宮島の夜景です。釣った魚の料理は母の役目ですが苦手だった様に思います。瀬戸内海は満潮干潮の差が激しく干潮時には母や友人と貝掘りに良く行ってましたね、夢中になってると満潮になり海に降りて来た場所を慌てて探したりと面白いほど昔は貝がよく取れてました。母は女学校の時にはコーラス部だった様で歌は聞いた事は無いけどNHKに出たと自慢してたのを思い出します。母方の実家は山口県岩国市にあったので伯父さんは転勤で戻って来たタイミングで岩国市に家を建てました。岩国は昔から米軍基地のある町だったのでお墓参りに本家に行くと祖母が「あそこの土地はハローに貸しとったんじゃ」と言ってました。祖母が「子供の頃はこの辺り一帯はうちの土地じゃったんよ」とよく言ってました。伯父さんは子供が居らず俺を子供の様に可愛がってくれました。伯父さんはジャズが好きでレコードをいっぱい持ってまして一緒に良く聴いてました。絵を描いたり写真を撮るのが好きで結構お洒落な人だったのでしょうね。俺が小学生の頃初めてコーヒーを入れてくれて『飲みんさい、大人の飲みもんじゃがもうええじゃろ砂糖とミルク入れんさい』と初コーヒーデビューお洒落な大人の飲みもんじゃと思いました。このお陰か今では大の珈琲好きですよ。
―――デザイナー・音楽の原点は何ですか?
熊倉 宮島に祖母や伯父伯母が住んでいまして。宮島の映画館で当時まだ子役の走りだった美空ひばりの映画『鞍馬天狗』とか嵐寛寿郎、長谷川一夫、片岡千恵蔵の時代劇などをよく観てました。昔の映画館は上映映画の看板を職人が手書きで描くんですよ。あんな風に自分も描いてみたいなあと憧れました。しょっちゅう行ってましたから職人さんが「映画観て来いよ」とタダで入れてくれましたね、まだTVは高価で家庭には無い家が多い時代ですからすっかり映画の世界にはまりました。力道山のプロレスを近所の電気屋に大勢の人達が集まり観てた時代です。家にTVが来たのは私が9才位だったと思いますがラジオがお友達の時代です。ラジオから流れて来る洋楽や歌謡曲にウキウキしましたね。伯父の影響で洋楽を良く聴くようになりました。15歳位の時に金持ちのボンボンが友達でビートルズの新譜やヒット曲なんかのレコードを良く聴かせて貰いました。初めて買った楽器は友達から500円で買ったギターだったと思います。貯金してレコードプレイヤーを買いましてレコードを買いに行くのですが当時は電気屋さんがレコード売ってましたね。最初に買ったレコードは加山雄三だったかな?まだ東宝の新人で、二枚目俳優の上原謙と女優の小桜葉子の子供ですからサラブレッドな訳ですよ。若大将シリーズとして映画の中で歌う曲が皆ヒットするんですね。洋楽としてはウォーカー・ブラザーズが大好きでしたね。3人組でボーカルのスコットウォーカーが痺れるんですね『孤独の太陽』『ダンス天国』がヒットして来日するのですがまぁカッコいい事、ピーターとゴードンやビートルズ、ストーンズも同時期ですかね。ブルースが好きになって行くのは中学生ぐらいかな?当時フランス映画の色は独特でしてジャンギャバンなどのギャング物を良く観てました。劇中で流れてるBGMは殆どジャズでシーンによってはジャズブルースなんですね、ハードボイルドとブルースの旋律はもうたまりませんね。
―――広島生まれの熊倉さんがなぜ新潟に?
熊倉 ある都合で広島から祖父母が生まれた新潟に引っ越す訳ですが親父は満州で生まれ第二次世界大戦の終戦前何年間かはシベリアに抑留されてました。戦争を体験したものは強いですね新潟に来て親父は新潟で商売を始めました。男は環境に馴染み易いのでしょうが母は意外と大変だったみたいです、子供の頃から育った場所から全く未知の地ですから当然かもですね。広島と違うのは気候、食位のものでしょうが当時日本海側を裏日本、太平洋側を表日本と言うなんとも差別的な表現でしたね。私はまだ広島と新潟を行ったり来たりしてました。いつからか絵を描く事が生業になれば良いなと思う様になりました。当時大好きだった横尾忠則さんの影響は凄く受けました。そんな事もあり私は東京に行くのですが最初に行ったのがジャズライブハウス新宿ピットインでした大好きな日野皓正さんを聴きに行ったのです。マイルスデイビスの影響もありモダンジャズが主流でした。この頃は音楽も芝居も何か前衛的な傾向にありジャズ喫茶全盛期ですねなんと心地よい空間だったでしょう、珈琲一杯で何時間も現実逃避が出来ました。当時東京は学生運動の真只中。前衛が逃避の回路を開き易くしたのでしょうか。将来は絵の仕事をしたいと絵画専攻で東京の美大を志願しましたが気がつけば当時の絵の好きな仲間と原宿竹下通り近くにあったデザイン系の専門学校に行ってました。住まいは代々木上原の木造3階建ての安アパート。家賃は幾らか覚えて無いけど一万円以下じゃ無かったと思います。当時は色んなアルバイトで金銭的に困ることはなく過ごせた良き時代でした。渋谷、新宿、池袋辺りが開発途上ですよね、都庁が新宿の水道局跡に移転したばかりであの辺りは何にも無かった時代ですね。当時の東京は高度成長に伴い光化学スモッグが問題になってました光化学スモッグで鼻毛が伸びるなんて話もありました。目がチカチカしたり、夜になれば星や月は全く見えず低く低迷した雲にネオンサインが反射して不気味な色に変化するんです。匂いも臭くてね夜はSFの世界ですね。通勤通学電車に乗ればいつもぎゅうぎゅう詰めで電車に乗るのは苦痛でした、いつからか都内は人が住む所じゃ無いと思い始めてましたから、ちょっと他の地方を観てやろうと自力で行ける自転車旅をはじめるんですね。風を感じ太陽を浴び雨に打たれ楽しい自転車旅、素晴らしい風景、自力ですから1日の移動距離は決まって来ますが札幌に着いて先輩の家にお世話になるのですが短パンからGパンに履き替えようとしたら、何とももが太くなってて履けないんですよ。自転車旅で自然の中での心地よさを実感、自然と隣り合わせの田舎暮らしが性に合ってると思いました。この旅をしてから田舎に住みたいと思い新潟に住む事を考えるのです。
―――学生運動が盛んな時代でしたよね?
熊倉 私が東京に居た時代は学生運動が盛んな時代でした。私は絵のデッサン会や浪人生や色んな大学の学生と知り合いになり18才から21才まで学生運動に傾倒してました。金はなくても楽しかったですね、酒飲ませてくれと友達のところに行けば必ず誰かが飲ませてくれるそして論争などもよくしましたね、どこにに怒りをぶつければ良いのか分からぬ時代、高度成長期の国の若者はそうなんでしょう。音楽ではグループサウンズが終焉を迎え学生運動と共に反戦歌などのフォークソングを歌う人達が増えてました。ジョンバエズ、ボブディラン、高石ともや、岡林信康、加川 良、泉谷しげる、吉田拓郎、高田 渡と一時代を築いた錚々たる日本のフォークシーンの人達、そこに頭脳警察の様な怒りを歌で表すロックが有り、日本映画では世間からはみ出たアウトローを主人公にした映画を好んで良く観てた様に覚えてます。原田芳雄、高倉 健が好きでしたね。街ではみんなギターケースをぶら下げて歩く若者がいっぱい居ましたね。
―――社会人のお話をお聞かせください
熊倉 戦後の混沌とした時代を経て日本は経済の立て直しに励み、夢を見ることが出来る時代になり、どこの家でも頑張れば夢が叶うと思ってました。私たちの世代はアメリカに影響を受けてまして「名犬ラッシー」や「ルート66」などのTVドラマを家族で茶の間で見るのです。アメリカの裕福でスタイリッシュな暮らしを見せられて憧れました。22才で都内大手代理店の制作に誘われたのですが、都会での暮らしに自分は向いて無いと考えていたのでお断りし新潟へ帰る事を考えてました。もう一つの選択肢としてハワイへ行く事も考えました。今後ハワイで日本人が旅行した際のガイドになったら面白いとも考えてたのです。広島から祖母の弟がハワイへ移民していてホテル経営をやっていると聞いていたのでその気持ちにもなりました。何度か打診しましたが身元引受人にはなれないとの事で諦めました。(数年後に妹はそこで挙式を挙げましたが。そこで新潟に帰り広告代理店に入社。数年後に自分でデザイン事務所をやった方が面白いと思い、
―――その後、独立されるのですよね?
熊倉 27歳で新潟駅南口の米山にフリーランスのデザイン事務所を立ち上げました。結構仕事もありフリーになって正解だったと思ってました。ちゃんと仕事をこなしていれば自由に時間が使えるのが嬉しかったですね。この楽しかったフリーランス時代も地元広告代理店のディレクターから「これからは紙媒体だけではダメだCMなどの勉強もしなきゃ生きて行けないよ」と超前向きな説得でまた代理店に再就職致しました。36歳で2度目のサラリーマンとなる訳です。当時は時任三郎さんのリゲインのCMでもおなじみの『24時間働けますか』のバブル期でしたからばりばり働きました。年間売上も昨年の倍になるなど凄い勢いを感じる時代でした。家には寝に帰るだけ。でも生き甲斐感じてたんじゃ無いですかね、この時代みんなイキイキしてた様に思いますね。給料も上がるしやり甲斐を感じてました。遊びは一生懸命して流行の先駆けをしてお洒落な生き方をしようみたいな考え方で、バブル期の象徴とも云うべき映画『私をスキーに連れてって』の時代でした。面白い良い会社でしたね。そこでの気付きですが営業が1番クリエイティブで無ければ代理店は成立しないと思いました。早速専務にお願いしてイベント部なる部署を作って貰いスーツなど着て営業に行くのです、音楽とイベントは切り離せないですから早速ライブハウスCLUB JUNKBOXへご挨拶に行きました。
―――T氏さんとの出会いですね!
熊倉 そこの代表T氏と意気投合しました。なんと彼は昔ブルースバンドでデビューしてたブルースマンでした。ずっと制作畑でしたが意外と外へ出させて貰って楽しかったです。こういった社交性が私の中に存在してたのは昔観た映画で植木等の「サラリーマンシリーズ」主人公はのらりくらりと楽しく世の中を渡るのです。笑顔で難を乗り切るタイプであまり出世せずとも人生楽しきゃ良い!がこの主人公。この生き方最高!と影響を受けてたのですね。ある日ライブハウスの代表T氏より『ブルースナイトと言うライブをやるから熊さん観に来てよ』とお誘い頂き、行きました。ライブの後半に突然ステージに呼ばれまして何か歌ってと超無茶振り。仕方ないので『カウンターのメニューを取って下さい』とメニュー片手にブルースを歌いました。この手は今でも使います。T氏が『歌えるじゃ無いか今度熊さんライブをやろう」と1ヶ月後に何となくデビューとなる訳です。初ライブですから動員をかけなければと友達総動員やら仲良しのお客さんに来て貰い100人位当日来てくれました。ライブハウススタッフが「大変です外の道路までいっぱい人が並んでますよ、中には花束抱えた人迄居ます」と報告。私は「えーそれはえらいこっちゃ」と逃げ出したい衝動に駆られました。ボクサーが試合前に敵前逃亡したくなる的衝動が良く分かりました。バンドメンバーが「熊さん落ち着いて下さい。これ飲んで」と多量のウヰスキーを勧めてくれるのです、私は言われるままウヰスキーやら何やら飲み干し浮き足だったままステージに上がりました。この洗礼を受けてからより一層ライブハウスと仲良くなるのです。
―――広告業界から音楽業界へ転身して戸惑いはありませんでしたか
熊倉 48歳の頃だったと思いますが、全国にライブハウスCLUB JUNK BOXを出店展開しようと出資者募集の企画書を見せられました。すぐに直感で『これは面白い!やろう』と決心したのです。既に新潟に2店舗、長野、仙台にライブハウス展開をしてたので全国展開のイメージはなんとなく出来たのです。バブルもはじけ、夢を見る事も出来無い日本、ならばここに残りの人生を賭けても面白いと思ったのです。ワクワクする仕事を選んだので今までと違う業態へ来たとかの戸惑いは無かったですね。ライブハウスは出演者の中から金の卵を発掘する優位なポジションにあるのでプロダクション業務もやりたいと私を誘ったT氏は言ってました。ライブハウスを展開する事業を(株)ジャンクボックス。プロダクション事業の展開は(株)ジャンクレコーズとし2本立で出発したのです。 最初この会社の代表であったT氏は専務に後退し、CLUB JUNK BOXの経理を管理しあの企画書を提案したS氏が社長になりました。私が入社直後にJUNK BOXが入っていた古町の中心的なファッションビル『カミーノ古町』のビルの持ち主(名古屋が本社)が倒産したのです。JUNK BOXでの私の最初の仕事はカミーノのテナントを集めて管財人との交渉と新しいCLUB JUNK BOXの場所を見つけて速やかに移転させるという大変な仕事となりました。一方ではジャンクレコーズの第一弾アーティスト『高岡奈央』を売り出しメジャー契約まで推めるというこれも大変な仕事です。ここの下りを書いていたら凄いページ数になりますのでとりあえずこんな展開から音楽業界に入って行ったと思って下さい。CLUB JUNK BOXの移転先は色んな所からお誘いは頂きましたがやはり古町界隈に拘りまして東堀6番町にあるファションビル『WITHビル』に移転となりました。カミーノの管財人も最初は早くの退店を即してましたが最後は協力してくれる様になり今回のこの騒ぎで多くの方の人情深さが身に沁みました。ですがここから2年後に株式会社ジャンクボックスは倒産することになるのです。
―――Negiccoさんとの出会いをお聞かせください
熊倉 2003年、私が50歳のとき株式会社ジャンクボックスが倒産しましたがジャンクレコーズの第一弾アーティスト『高岡奈央』のオファーや営業はまだあったので個人名義の会社「越後屋本舗クリエーターズ」を立ち上ました。金沢にある北陸農政局さんからの仕事、新潟県内のイベント制作の仕事、県内での周年事業などなど仕事は個人になってもあったのです。ある時、北陸農政局さんよりのオファーが有りました。その内容が『現在日本の子供たちの食事が欧米型になって来て日本の食が疎かになってる、これは仮説だけどアトピー性皮膚炎やキレる子供の情緒不安定は食にあるんじゃないか。ちゃんとした日本食の文化に乗っ取った食事を行えばこの辺りの病気は軽減するのではなかろうか?幼稚園児や小学校の低学年に向けた正しい食の歌を作り子供目線で歌ってくれる子は居ないかなぁ』と相談を受けたのです。ここに丁度よく我らがNegiccoが正にグッドタイミングで誕生致してたのです。私は何処かのイベントでNegiccoのパフォーマンスを見てましてそれが脳裏に焼き付いていたものですから『新潟にNegiccoなるユニットが居るのであの子達に歌わせましょう』と話を進めたのです。当時Negiccoの所属はアップルリトルパフォーマンスという芸能スクールだったので懇意にしていた副校長にこのお話をしましたら『それ進めましょう』と即OKを頂きました。石川県の盆踊りは「炭坑節」だそうでみんなが耳馴染んだ炭坑節の替え歌で歌詞を載せてNegiccoに歌わせるものでした。歌詞は北陸農政局の担当だったT氏が書きCD15,000枚を作りあちこち配布したのです。これがNegiccoと私の出会いとなるキッカケでございます。このT氏は今は霞ヶ関にいらっしゃいまして、たまに電話で安否確認致す仲でございます。
―――熊さん個人的な活動と今後についてお聞かせください
熊倉 今後の個人的活動と言う事ですが今年2023年はNegiccoの記念すべき20周年ですから今年はNegiccoの為に動こうと思います。個人的にはもっとライブをやりたいですね。AHBBのギター、ジローさんが入院中でバンドは休止してますので坂井と熊倉のベアスロープでライブをやりたいですね。仲間が倒れるという現実、身体の手入れ管理は自分でキチッとしておかねば迷惑掛ける年齢になってしまいましたね。ですからジムで体を鍛える様にしています。
―――今後はNegiccoさんの曲を熊さんがブルースソングにアレンジして歌唱することもありますか?
熊倉 すでにラジオとかAHBB(アルツハイマーブルースバンド)のライブで『圧倒的なスタイル』をやらせていただいておりましたが、また何か考えて是非やりたいと思います。
―――Negiccoさんと1番記憶に残っていることを教えてください
熊倉 約5年前でしょうかツアーの途中で広島の宮島にNegiccoを連れてったことですかね。私の大好きな場所をNegiccoに案内するって事は感無量でした。最近ですが2019年の京都磔磔でNegiccoツアーの前日にAHBBをやらせて貰ったのは何とも言えない良い思い出となりました。
―――健康の秘訣を教えて下さい
熊倉 秘訣を語る程身体の維持がちゃんと出来ては居ないのですが、1年半前からジムに行ってます。スクワットや腹筋、腕立て伏せなどの運動はジムへ行かないと家では絶対やらないんですよ。週に2〜3回行ってます生活に必要な筋肉を維持するくらいの運動ですが今年雪のけ作業をした際も筋肉痛にもならなかったのはジム通いのおかげと思ってます。温泉にゆっくり入るのも良いですね。私はぬる湯が好きなんですが比較的近い所に理想のぬる湯がありまして。そのぬる湯に長時間、入浴していると整います。今年からまた山登りも始めようと思っています。
―――熊さんにとってブルースとは?
熊倉 中学生頃かな?フランス映画のBGMに使われていたのを最初に聞いた時に心に響く旋律だなと思いました。後にブルースだと分かり好んで聞く様になりました。私にとっては癒しの音楽なんですね。朝からブルースかけたりしてますよ。
―――同世代について思うことは?
熊倉 私の周りの同世代の人はみんな色々な人生をこなして来てますから面白い人が多いですよ。自分の意見を曲げない偏屈ジジイとは付き合いません。『もう歳だから』と言う考えは全く無いですね。バカだと思える事も楽しい事ならやらなきゃダメでしょう、とまだ思ってますから。若い人と付き合った方が良いですよね。
―――最後に一言お願いします
熊倉 今年はNegicco20周年、熊倉は70才。節目な年ですので成功の年にさせたいです。頑張ります。
▽プロフィール
熊倉維仁/Yoshihito Kumakura
1952年11月14日、広島県広島市生まれ。現在は、デザイナー、ブルースシンガー、EHクリエイターズ会長を務める。愛称は「熊さん」。Negiccoマネージャーで育ての親。元・古町七番町商業部員。
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